「始めは『三鷹の侍女』だと思っていたのです
「始めは『三鷹の侍女』だと思っていたのです。
父上にも、すぐに願って許可も貰っていたのです。
ただ、運命のいたずらかーーあの日、牙蔵と仁丸が桜に先に関わり…
いまだに」
そこまで言うと、信継は黙り込んだ。
「…っ」
詩がチラっと見上げると、信継の瞳は詩だけをじっと見下ろしてーー
その瞳の奥の熱と、真剣な表情。
詩は、蛇に睨まれた蛙のように、何も言えなかったのだ。
「不器用ながら口説いても…桜にはそんな気は全くなくて…なかなか手強い女子です」
「…」
詩は複雑な気分で、少し赤くなった。
「まあ」
緋沙はうふふ、と笑って、そんな2人を微笑ましそうに見ていた。
「信継さんを拒む女子がこの世にいたとは…ふふ。わかりました。
桜姫はしばらくここで匿ってあげます」
「…本当ですか」
信継は目を見開く。
「ですが…父上が」
緋沙はケラケラと笑った。
「殿はここには来ません。
若い2人の前でこんなことを言うのも何ですが…
あの人は変態の化け物です。
ふふ…側室方の身が持たないから、わたくしが計画的に、閨ごとのお相手を采配して毎晩送り込んでいるのです。
なので、わたくしの部屋に来る暇はありません」
「…」
信継は頭を下げる。
「…ならば。
母上、桜をお願いします…。」
「大丈夫。安心してください。
信継さんは明日から戦ですね、ご武運を祈っています」
「ありがとうございます、母上」
信継は畳に手をついてきちんと頭を下げた。
『泊って行けばいいのに』という呑気な緋沙の誘いを断り、信継は外に出た。
緋沙と詩が見送る。
「桜、行ってくる。
…母上のそばを絶対に離れないように」
「…はい」
詩は頷いた。
今は、それしか方法がなさそうだった。
明日には戦に行く信継。
詩は喉元まで出かかる言葉を押し込めた。
信継がニコッと笑って、何度も振り返りながら、大股で去っていく。
詩と緋沙は寄り添うように見送っていた。
まだ暗い東の空が紫色に染まっていく。
夜明けが近かった。
ーーこれは、違う。
優しくしてくれた信継様に対しての…人間としての、気持ち…
信継様、
どうぞ…
ーー死なないでくださいーー
緋沙に促され、部屋に戻るまで、詩は信継の歩いた地面を見つめていた。ーーーーー
沖田城。
『小原』の使者を騙った牙蔵は、殿の龍虎に、の挨拶をしていた。
「叉羽殿。小原の主君にくれぐれもよろしく。
未明、落ち合いましょうと」
「…承知しました。此度の某の訪問、快く受け入れて下さり感謝申し上げます。
…奥方様は昨日から気分が優れないご様子でした、どうぞ、美しい奥方様にもよろしくお伝えください」
「ああ…
……ありがとう…」
不機嫌を何とか押し殺して振舞う殿に、牙蔵は今にも吹き出しそうだった。
深く礼をして、門から出る。
牙蔵はそのままーー地下牢へ忍び込んだ。
「…うまく隠せばよかったのに」
「あっ!?」
「しー。
そこで2人気絶してる」
牙蔵は格子越しに、人差し指を口元にあてて美和を見下ろす。
「叉羽…様…」
憔悴しきった様子で地面に正座していた美和は夢見るように、それは嬉しそうに呟いた。
「…来てくださったのですね…!美和は…」
これからもっと酷い目に合うだろうに美和は、冷えた地下牢で頬を微かにほころばせて牙蔵を見上げた。
「…」
「叉羽様…お慕いしています…
わたくしはもう…あなたなしでは」
「…そんなに